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我が社のあゆみ

  ここに掲載する我が社のあゆみは、弊社四代目社長、故豊田舜次が昭和50年に創刊された社内誌「豊友」に「我が社の歩み」と題して5ヶ年余りにわたって投稿したものを要約して記したものである。

 

「明治編」

その1

文久三年三月二十日、これは創始者豊田庄九郎が家督を継いだ日である。文久三年とは、一八六三年、擾夷を主張する長州藩が下関海峡を通過する外国船を砲撃するなど、幕末騒然の頃ということになる。また、アメリカは南北戦争のまっ最中であった。

もちろん当時のことで学校制度はなく、ひと通りの読み書きソロバンを習得し、天びん棒をかついで、農作物を主とした商売であったと伝えられる。時に庄九郎若冠十六才。場所は東海道五十三次二十七番目の袋井宿新町一現在の袋井市袋井二〇番地である。

そして五年後に明治となるが、更に十年後に起った西南戦争の軍事支弁のために発行された不換紙幣等により物価が騰貴し、米も大相場を現出した。

 

その2

明治二十年といえば、この年の二月に東京人造肥料が創立され、翌二十一年十一月に、我が国で最初の化学肥料・過燐酸石灰が製造されている。

それから二年後の明治二十二年に東海道本線が単線ながら開通するが、豊田庄九郎は早速、駅前の現在地に進出、倉庫と事務所を建設し、明治二十四年・豊田合名会社を設立するに至った。

開通して間もなくここを通過した正岡子規が「冬枯れの中に家居や村一つ」と詠んだほど閑散な駅であったが、結果的には地耐力や水害の面から見て、現在地の方がよかったと思う。

下の写真は東海道線の複線化が成った明治四十一年頃のもので、現存する本社倉庫四号・五号前である。看板に「茶話会五周年記念」とあるが、茶話会とは慰労会のようなものなのか、或いは全体会議のようなものであったかは不明であるが、当時の扱い品目は、米、雑穀、肥料、石油等で石油部・製肥部など独立したセクションの責任者、担当者の顔も見られるようである,

 

 

その3

明治の末葉に於ける流通肥料の主流は、それまでの魚粉類から満州産の大豆粕へと移り、国産過燐酸石灰と輸入硫酸アンモニアが、いわゆる人造肥料として徐々に普及して行く段階にあった。

また、石灰チッソも明治四十一年頃から製造されたが、農家は使い方を誤って色々と話題をまいた。島田のある新婚早々の嫁さんは、桑畑に石灰チッソを施したところその夜から股間がはれ上がってしまい、性病と誤解されて離婚の憂き目を見たという。当時の農村婦人はパンティ着用の習慣がなかったのである。

豊田合名会社でも使用法をよく理解せずに、これを浅羽方面の水稲追肥として売った年輩の社員があり、外交に出たところ苦情殺到で、法多の山越えで逃げ帰った一と、いつまでも語り草になっていた。

東海道線の複々線化になった 明治41年頃 本社倉庫前にて

 

「大正・昭和初期 編」

その4

大正五年の米価は一五〇キロ当たり一三円七六銭、同六年一九円八四銭、そして同七年には、米不足と米価高への思惑により、三二円七五銭と高騰し、富山県の一漁村の主婦たちによる米騒動が新聞で報道されるや、全国各地に米よこせの暴動が拡がった。

当県下でも、八月一六日に清水の望月兄弟商会の倉庫が焼かれ、その翌日の一七日には、遂に棊動は袋井にも波及した。豊田合名では門をかたく閉ざして、外に続々と数を増やして群がる暴徒に備えていたが、社員の一人が軍隊時代に入手したピストルを威嚇のつもりで空に向けて発砲した所、かえってこれが暴徒を刺激して投石が始まり、あわや焼き打ちという時、浜松の歩兵第六七連隊から一個小隊がかけつけ事なきを得たという。

各地の米騒動も、大体これと同じように一軍隊の出動という力による鎮圧で、一応の落着きを見たが、米価の方は大正八年四五円九九銭、九年四四円六三銭と高値を続け、これを契機として大正一〇年に米穀法が施行された。

 

その5

さて、昭和五年四月一五日、小野商店からの麸、とうもろこし、こうりやん、大豆の引合いと、売契約として、豊年荒ロ一五トン袋井レール二円八五銭側線入石津和作、とある。石津和作さんとは、大須賀町の伊勢屋さんの先代である。また、七月一七日には、豊年五〇叺居払二円八五銭古田屋、豆粕三〇枚居払一円六七銭児玉、ほか一五件ほどの売商内が記されている。夏肥当用期の小口商内である。いうまでもなく古田屋さんは大須賀町で、当時は先々代が健在、児玉さんは浜松カントリークラブ児玉常務の父君勘一さんのことである。また、豊年とは豊年製油のバラ豆粕で三七・五キロ叺、豆粕とは満州(中国東北地区)産板豆粕で約二七キロの円板状のもので、米一俵との交換何枚、というように明治末葉からのバーター商内の主流を成していた。この日の米の引合いは蓬来米(台湾米)が九円五〇銭、内地米はこれより若干高値であるから、このときの交換相場は五枚半から六枚弱といったところであったろう。

 

その6

昭和十四年三月二十五日公布の「肥料配給統制則」により、配合・化成肥料は極度の抑制をうけ、また、同年八月から実施された肥料配給割当制度によって、硫女・かりんさん・加里塩・配合の道府県別の十匹年八~十二月配給分の数量が決まり、割当肥料全体の取扱率は商業者側五〇・一%、産業組合側四九・九%となった。

ところが十四年九月上旬に突発した欧州戦乱によって、ドイツ・フランスからの加里塩輸入がストップし、当時はアメリカ・ソ連の加里はなかったので、加里肥料の割当は直ちに手直しされた。

そして、十五年一月には有機質肥料にも配給劃当制が適用され、自由取引の範囲はぐんと狭められた。そのかわり配給業務務が多くなったが、それも戦局の激化にともなって供給量は減少の一途をたどり、輸送もまた困難さを増し、肥料配給機構の簡素化・強力化の要請により、遂に十九年八月配給経路は農業会系統一本建てとなった。

このような情勢の中で、まず社長は十八年に推されて「袋井町長」となり、袋井農業会長も兼任した。

 

昭和11年7月8日 新町の本社前に勢ぞろい
左から鈴木猪十郎氏、松井豊脇氏、社長、豊田庄七氏、山口実氏、白畑幾太郎氏.村越哲郎氏、窪野貞雄氏、藤江常務

 

「昭和(戦後) 編」

その7

さて、いよいよ戦後史に入るが、豊田米肥(株)は解散したと述べたが、専売法による塩の元売業務だけは継続された。

一方、肥料の統制形態も、連合軍総司令部の指示により、二十二年六月『肥料配給公団』が組織され、同月公布された『肥料配給規則』により農家はその希望する肥料取扱業者から『肥料配給券または購入通帳』により購入出来るという末端小売業者の二元性による配給サービスの方式に改善された。

このような情勢の中で、私は二十二年春、戦後の混乱期に乗じて旧制福知山工業専門学校を卒業し、肥料業務再開のメドも立たぬままに、織屋でもやろうと本社倉庫に天窓をあけ、飯田式織機四台と成形機一台を入れて操業に入った。この時に監督工として熊切伊太郎君が手伝った。

しかし、統制品すれすれの落綿糸と称する低品位の綿糸でコール天を織ったり、ガラ紡のホームスパンや、漢字は忘れたが『しようせん』という細い紙紐で織る布など、経験も地盤も信用もない者にとって物不足の混乱期とはいえ、気骨の折れる試行錯誤の連続であった。

こうした中にあって、織屋をやる傍ら現在のプロパン部事務所で雑貨等を扱っていた藤江常務と二人で、配給業者の登録のために農家廻りを始めたのが、二十三年暮から翌年正月にかけてであった。

 

その8

昭和二十四年は肥料の統制解除の前夜ともいうべき年であった。

肥料配給業者の資格を得るため前年の暮から農家を巡回した。

ただ、対象農家数は百二〇戸ほどであったが、零細な兼業農家が多く配給通知を出すとバケッを持って受取りに来るような始末で、とても商売にはならず、塩業会社と織屋でこの年の秋までは終始した。しかし、「統制解除近し」の気配が濃厚にただよい始め、藤江常務と師走の砂利道を自転車で売り込みに出掛けた。

もちろん私は見習いに過ぎないが大いに驚いたのは、商談がまことにすらすらっと運ぶことであった。

このようにして昭和二十四年は暮れ、統制解除の年・二十五年を迎えるが前記の有機質肥料・菜種粕や落花生粕、コプラミール(梛子粕)などの植物性油粕と魚粕類、また魚粉と豆粕を混合した魚豆肥料のほか、麦糠、脱脂米糠、麸などの飼料を、磐田・周智・小笠の三郡の農協と、ぼつぼつ店開きを始めた小売店へと売り込んだ。

 

その9

現在、周智郡森町の上多喜商店さん、戸塚屋さん、石灰屋さんは麸・麦糠・脱脂糠等の扱いが割合に多かった。

私が二十五年の春、はじめて単独で卸の商売に出掛けたのが、この森町方面である。この太田川水系の地域は、地形の面からも物流の歴史からいっても、袋井がその玄関口であって、当社にとっても昔から安定した商圏となっていたので、新米セールスが修業するには恰好の地盤である。

さて、卸のセールスに出た私の初商いは、第一日の午前中・山梨農協であった。久野俊平専務と面談して魚粉一〇貫〆入り二〇叺と、バラ豆粕(脱脂大豆)一〇貫〆入り一五叺の受注だったと記憶している。そして同じ日に石灰屋さんから麸の五〇袋を受注したのが、商人系の初商いであったと思う。いづれにしても、大いに気を良くした印象が残っている。

 

その10

肥料の統制解除直前に於けるメーカー・ディーラー各社の動きを記しておく。

まず三井物産だが、当時は進駐軍の財閥解体指令により、三井物産という会社は存在しなかったが、資本金十九万円でいくつかの会社が、旧社員たちによって設立された。その中の第一物産清水支店の浦田支店長が麻の背広に蝶ネクタイ、パナマ帽という当時国防色の復員服や戦闘帽が巾をきかせていた時代としては、大変ダンディないでたちで来訪したのが、印象的であった。

東洋高圧の硫安、電気化学の石灰チッソ、それに肥料のニューフェイス尿素も話題の中心であったように記憶している。

三菱商事も物産同様で、三都商事から魚粕類・糟糠類の取引に加え、公団放出の化学肥料の引き合い・仕入れがあった。また、同じ商事系としては、大平商工から、宇部興産の硫安、揖斐川電工か日本カーバイトかの石灰チッソ、のちに日本鋼管のトーマス燐肥等で、配合肥料の売り込みは、尼ヶ崎の国産特許肥料と福栄肥料が早かったと思う。

国産特許肥料の担当は、赤川和一郎さんという大変背の高い人で肩書きは課長であったが、私のことを「坊ちゃん」と呼ぶのには、ほとほと閉口した。

このようにして、二十五年八月から自由販売は始まったが、この年の六月に朝鮮動乱が勃発し、諸物価の騰貴を招いた。幸い肥料に関しては政府が輸出管理の強化等の手を打ったため十一月頃までは平静な相場で推移した。

豊田肥料店は、年初来の有機質肥料と飼料の商いに、八月から化学肥料が加わり、業容の拡大につれて、事務所が手ぜまになったので、道路に面したまん中の倉庫の三分の二をとりこわし、新社屋の建設にかかったのがこの年の十月である。

 

 

 

「昭和 編」

その11

二十五年十月に木造新社屋の建設にかかり、その年の十二月中ばには階下の事務所部分は、どうにか使えるまでになった。

そして、この時の『豊田肥料店』の陣容は、六人であった。

また、翌二十六年三月には女子事務員は二人となり、秋には計十五人となったが、これはほぼ戦前の豊田米肥(株)に匹敵する人数である。

この昭和二十五年の売上高の記録が見つからないのは非常に残念だが、会長の個人所得申告書によると、肥料飼料販売による所得が五十三万円、浜松塩業(株)の給与所得等が五十四万円余となっている。

また、この年の年末棚卸表は、現在と比べて大変興味深い。総額も二百九十一万二千二百七十九円と決して多くはないが、品目はなんと三十に過ぎない。包装別のものや乱袋品を一品目と見ても四十三というわけで、分類すると化学肥料十四・有機肥料八・飼料五・石灰類三である。

このようにして、好況の昭和二十六年を迎えるのであるが、戦中戦後の暗く、長いトンネルを抜け出しての好況であっただけに、時が経つにつれ、人の心もゆるみ勝ちな面も出て、そのツケが数年後の難行苦行となって廻って来るのである。

 

その12

さて二十六年は好況の年であったと記したが、その状況を「内務日誌」から拾うと、一月五日の初商いは笠原農協へ硫安三十七、五キロ入れ百叺を居払(置き場渡し)七百十二円で売り、一月八日以降も石灰チッソを三川農協へ二百袋、久努農協へ百五十袋と積極的であった。

また、尿素も戦後デビューした新肥料として、PRに月日がかかり、硫安や石灰チッソの上げ足に仲々追従できずにいたが、それでも年末には卸九百円がらみの値段が通るようになり、年初比二十五%のアップとなった。

いづれにせよ、この昭和二十六年は、ゆるやかな物不足パニックと大部分が上げ相場に終始したので、売上も収益も大いに伸びた。

即ち、売上高二億五千三百七十七万百五十七円、会長の個人所得の中の営業所得が三百二十万二千八百三十四円であった。この営業所得は会社の決算でいえば、社長(店主)報酬プラス税引前純利益に当たるものである。

 

その13

昭和二十七年の「内務日誌」最初の書き出しは一月三日、私の字で大平商工、海野さんからの電話を記録している。正月の三日でも当時の商社は出勤したものと見える。この年は前年のような一本調子というわけには行かなかった。

一月七日、太陽肥料から日窒硫安一〇一〇円の引合いがきた。同九日には東圧硫安九九五円、同尿素九四〇円の引合いを見送ったあと、日本水素の硫安三〇トンを九八五円で買付けている。

時の日水担当の谷さんは西南戦争に於ける熊本籠城軍の指揮官・谷干城将軍のお孫さんである。

石灰チッソの動きは、硫安とは若干異なったようである。この石灰チッソは水田元肥に非常に多く使われ、単協の仕入れが多かったので、浅羽地区の五農協をはじめ、周智郡および磐田郡東部の各農協のことを「豊田購連」と誰言うとなく呼ぶようになったものである。もちろんこれは石灰チッソに限らず、各肥料についても当社の密度が濃かったせいである。

それから、この二十七年は私が見合いをして婚約した年であるが、スペースがないので詳述はやめておこう。

 

その14

さて、この二十七年の秋から暮にかけては、化成肥料の後発メーカーが生産・発売に踏み切った時期でもある。当社にも東京貿易(旧大平商工)からコーカン化成を、また、日本水素からもクローバー化成の試作段階での引合いがきている。

しかし、当社の化成主力銘柄は、既にトモエ化成の色が濃く四~九月で一、六九〇トンを扱っているし、講演会も山本実先生を講師として度々行われている。

また、この頃の講師として印象深い方に、東圧尿素の鎌倉先生がある。現三井東圧常務の菱山さんとコンビで、十六ミリ映写機をかついでよく来られたものである。当時の尿素は特約商品として、販売テリトリーがよく守られていたが、翌二十八年春、住友化学が粒状品の生産を開始するに及び、次第にその特色が薄らいで行った。

 

その15

現在、会社には蓑が二つある。一つはタタミ表用のい草で編んだもの、他の一つは藁製でいずれも昨年、営農研究会々長の近藤文平さんが我が社にご寄贈下さったものである。何故、近藤さんが蓑を下さったか?たまたま昨年のエビス講で、話が蓑のことに及んだ。

その時、近藤さんは昭和二十年代には、よくリヤカーで肥料を取りに来たものだ、家から袋井駅前まで七キロあまりの道のりだが、当時はさして苦にもならなかった。

そして雨が降れば合羽がなかったので、藁かシュロで編んだ蓑を着た。その思い出のために作って見た一と。

今にして思えば、舗装のない砂利道を、七キロもリヤカーを引いて往復するなど、まことに今昔の感に耐えない。当時、昭和二十八年には「豊田肥料店」の構成員は十五名で、その十五名の一月分給料の合計額が、拾参万七阡円、平均一人当たり、九阡百参拾参円、一番若い新人は、参阡五百円一と、また時代の隔たりを思わずにはいられない。

この昭和二十八年も、前年の二十七年同様、若しくはそれ以上に肥料全般の平均的市況は概して低迷状態であったようだ。

 

その16

この三月十二日から使用している仮事務所の土地は、かつて豊田合名の子会社、豊田商会の縄莚部として、約千坪の土地に倉庫・事務所が建てられていた。

ところで、肥料や穀物の容器は、戦前は勿論、戦後の昭和三十年頃までは、叺・俵が大部分で、特殊なものとして石灰類や石灰チッソの紙袋、という状態で縄・莚の市場は相当大きなものであった。

そして遠州の藁工品は、叺や縄としては良品が生産されており、門倉商店をはじめ藁工品の集荷問屋が繁昌していた。

本社の西隣りの観世も丸商という藁工屋さんであった。

しかし、三十年あたりから紙袋が化成肥料にも使用され始め、樹脂袋もまた尿素から次第に他の肥料へと普及し、遂に藁工品業者を転廃業に追いやった時代であった。

需要の消えて行く業界と増大する業界、また、平準な需要を保っている業界。肥料はもちろんこの三番目に属するが、配合飼料・農薬・LPGはこの時点あたりが、ボツボツ需要拡大の萌芽期であったといえる。

そして、三十一年十月に豊田肥料店は豊田肥料株式会社となり、資本金は四五〇万円であった。

 

その17

現在の土づくり運動は、畜産廃棄物や製紙スラッヂ・汚泥等の有機物資材を多投する方向にあるが、昭和二十年代から三十年代初め頃の土壌問題は、先ず酸度矯正ということで、消石灰や炭カルが主流であった。それでも苦土石灰・珪カルの出現でボツボツ微量要素への認識が高まる萌しが見え、何か特色のあるものをと考えていたところへ、それまで種粕・加里・過燐酸・珪カル等の取り引きのあった東食から、東化工の新製品「みつかね肥料」の引合いがきた。

この「みつかね」は我が国で始めての拘溶性マンガン肥料で当県農試の橋本化学部長も、その商品特性に良き理解を示され、説明会にも出席された。

初オーダーは同年十二月と一月中旬積各十五トン。二月には三〇〇トンのオーダーをしているが、この方は生産体勢不備のために積みおくれで時期がずれ、結局一五〇トンに終わっている。

 

その18

昭和三十二年の内務日誌によると、四月に松島省三先生の講演会が決まり、演題は「水稲増産の原理」という連絡を日東化学から受けた。

これは入社二年目の現松井常務が、日東化学本社で行われた先生の講演を聞き、その革新的稲作理論を我が社の技術販売に採り入れようと進言したことが実行に移されたのである。

会場は元袋井商業高校の講堂、当時の市役所第一会議室を借りて行われたが、盛会で三百人位の熱心な農家が、四時間にわたる先生の熱演にジーッと聞き入っていたことを、今でも昨日のことのように想い出す。

また、先生は収量調査についても、精度の高い坪刈りの方法があることも話されたので、早速同年秋に実演をお願いし、先生が研究室のスタッフ四人と共に来袋、四班に分かれて遠州の各地で坪刈りを実施した。

このようにして現在では全く常識になっている稲作V字型施肥体系が、当地に第一歩を踏み出し、当社の技術販売の骨格として、とくに三十年代の困難な状況を乗り切るにあたり、遅効的ではあるが、営業の土台を成すものとして、高く評価されるべきものであると思う。

この昭和三十三年には、飼料についても局面の変化が見られ、またプロパンガスの取り扱い開始の年でもある。

 

その19

昭和十一年七月、当時の豊田米肥株式会社の前に勢ぞろいした社員一同を撮った下の写真の中にホーロー看板が一枚写っている。これを虫メガネで子細に見ると、完全飼料・三菱商事株式会社と判読できる。

従って、戦前に於ける我が社の配合飼料は、主として三菱であったことが伺えるし、当時の内務日誌にもそのような記事がみられる。戦後、昭和二十五年に業務再開となった頃は、肥料も飼料も単肥・単味が殆んどで、化成肥料・配合飼料の扱いは極くわずかであった。

それが食糧事情の好転、朝鮮動乱による好況・経済成長から次第に畜産物の需要が増してくるにしたがって、専業に近い型の養鶏、養豚が徐々に興り、配合飼料もぼつぼつと売れ始めたのが二十七年頃からであった。

当時、わが国の鶏卵消費量は、国民一人当たり二十六年で三十五個、三十一年七十五個、そして現在はおよそ二百八十個。配合飼料の方は二十九年三十五万トン、三十二年百五十万トン、現在は約二千万トンとなっている。

そのように、やや後発気味のスタートではあったが、「糖蜜入り」が看板とあって、養豚用に力点を置き、かつ、それまで当社にはなかった飼料専任者を任命した時期である。